私自身を語る

——— どうして絵描きになったのですか?

  • 小さいころから、絵を描くのが大好きでした。遠縁の親戚に画家がいて、それで小学校に上がってすぐ、その人のところへ絵を習いに行くようになりました。本当はもっと早くから習いに行きたかったんですけれど、小学生以上じゃないとダメだと言われて、それでしばらく待たされました。
  • 小学校の授業でも、絵を描いたり、工作をしたり、粘土細工をしたり、家の模型を作ったり、とにかくそういうことが得意で、楽しかったですね。でもそのころは、将来は建築家になりたいと思っていました。実は私は、絵描きになりたいと思ったことは一度もないんです。今でもそうです。絵はなんでしょうね、好きだから続けている、といった感じです。

——— 大人になるまでを、どう過ごして来ましたか?

  • 生まれたのは鶴見で、すぐそばに聖ヨゼフ学園がありました。小学校だけは公立だったんですが、幼稚園、中学校、高校は、プロテスタントのミッション・スクールに通っていました。そういう面では多少キリスト教にご縁があるんですが、正直言って、朝夕の礼拝や聖書の授業などは苦痛でしたし、面白いとは思いませんでした。
  • それで高校生活も終わりごろになって、子供時代の感覚が呼び覚まされたというんでしょうか、美術大学に行きたいと思うようになったんです。でも、そのためのデッサンなどの勉強は殆どしていなかったので、結局一浪して、杉並区の東高円寺にある女子美術大学の油絵科に入学しました。中学、高校と女子校。そして大学も女子大学です。(笑)
  • 大学生活は充実していて、非常に楽しかったです。ずっと好きな絵を描いていられましたし、それなりの手応えもありましたから。日本画の授業で池田幹雄先生に作品を高く評価され、先生の御本に私の絵を載せて頂いた時は、特に嬉しかった想い出があります。それで、卒業の時には、卒業制作優秀作品賞もいただきました。
  • そうしたことに味をしめた、ということでもないんでしょうけど、ずっとその楽しさを続けたくなって、武蔵野美術大学の大学院に進学しました。実は女子美の卒業時に、元町にある宝石店へジュエリー・デザイナーとして就職することが決まっていたんです。ところが大学の掲示板に美大の大学院試験応募要項が掲載されていて、駄目もとで試験を受けたんです。そしたら、なぜか受かってしまった。それで、進学することにしました。あとで、その宝石店の社長さんのところへは謝りに行きました。
  • ところが、この武蔵美の大学院時代は、楽しいどころか、一転して悩み抜きました。苦しい時代でした。大学がある小平へ通うのも大変でしたし、女子美で教職課程の残りを取っていたものですから、同時に二つの大学に通うようになったんです。加えて、自分の表現というものを見失ってしまったんですね。自分の思いというものと、スタイルというものが合致せず、解らなくなってしまったんです。

——— 学校を卒業してからは、どうされたんですか?

  • そういう時に、アトピー性皮膚炎が出て、症状が悪化しました。大学院の卒業時に、ある学校から美術教師として迎えたいというオファーがあったんですが、そういう体の状態でしたし、結局その話はお断わりして、しばらく静養することにしました。いま考えてみますと、皮膚というのは体の表面ですから、表現に関係している。やはり表現活動に関しての心の葛藤が、そのまま病気という形で現れてしまったんだと思います。
  • でもその時は、ただ苦しいというだけで、よく解らなかった。それで、油絵を描く時にはいろいろ揮発性の溶剤も使ったりしますから、それも良くないだろうということで、一時期、水彩画に切り替えたんです。そんな時に友達が、油彩とテンペラ(tempera)の混合技法(mixed medium)を教えてくれる先生がいるよ、と知らせてくれたんですね。それで、その先生のところへ習いに行くようになったんです。これが結果的にピタッと自分にはまりました。

——— それは、どんな技法なんでしょうか?

  • この技法は、新しいようでいて、実は古いルネッサンス期の手法です。絵画技法が、フレスコ画、テンペラ画、油彩画と変化してく中で、テンペラ画から油彩画への移行の中間段階に生まれたんです。これはキャンバスに描くのではなく、先ず板に膠で溶いた石膏を塗って下地を作ります。これに下絵を描いて、次に卵や樹脂で溶いた白テンペラ絵の具を載せていくんです。そしてその上から、油絵の具で彩色する。
  • こうすると発色がいいのと、細かい描写ができるんです。キャンバス地ですと、どうしても布の織り目がありますから、それに邪魔されて細かい描写はできません。でも私は、細かな描写が好きというか、したかったので、この混合技法は私にピッタリ来るものがありました。それと最後の仕上げ段階では、極細の筆で一本、一本、線を描き込み、遠目では分かりませんが、下に入れてある白テンペラの効果もあって、これが柔らかな表情を作るところも魅力です。

——— それが、転機になったわけですね。

  • ええ。それで、この混合技法に出会ってから、10年後に先ず模写を始めたんですね。ルネッサンス期のラファエロとか、カルロ・クリヴェッリなんかの。その過程で、宗教画にも触れるようになっていきました。混合技法に出会う前は、油彩の大きな作品を描いていたんです。作風は、よくアンリ・ルソーに似てると言われたんですが、そういう幻想的でシュールな絵でした。
  • で、そうやって模写を続けて行くうちに、しだいに自分の画風に落ち着いていったんです。油絵時代の元々持っていた幻想的な感じを、ルネッサンス期の古い手法で描くというスタイルが合わさったんですね。それから、クリヴェッリの模写から出発した『聖母子像』シリーズが、段々と自分の画風に変化しながら続いていったんです。9年間ずっと描き続けて、正確に数えたことはないんですが、たぶん100点以上は描いただろうと思います。↗

——— そこから『黙示録』シリーズに移っていったのは?

  • そうして2009年になった時に、画廊の社長さんから、「『黙示録』を描いてみたらどう?」って言われたんです。『黙示録』は、ミッションスクールに居ましたから、以前から知っていましたし、いつか描いてみたいと思っていたんですね。そのときにそう言われて、挑戦してみようと思いました。

——— 「挑戦」という意味は?

  • やっぱり解釈が難しいし、これを絵にしたらどうなるんだろう、という興味です。実際、『黙示録』を絵に描いている人はあんまりいませんし、これは非常に挑戦的な試みだと思いました。
  • よく知られているように『黙示録』は象徴言語を多用して書かれています。一つの考えとして、この象徴言語を読み解いた世界を、インスピレーションで描くという方法もあったと思います。でも今回は、書かれている場面を、先ず言葉どおりに忠実に表現してみる、ということをしてみました。でも、忠実に描くということの方が、逆に難しかったと思います。

——— それはどうしてですか?

  • 今回はF8号の板に描いたんですが、F8号の大きさの中に、各章の物語の要素をどう収めるかということが先ず非常に難しい。物語のどこを取り上げるかとか、その配置とか、強弱とか。自分のイメージで描く場合には、そういう悩みが必要ないでしょう? それで悩んでいる時に、アルブレヒト・デューラーの黙示録の版画に出会いました。また今年2011年には、上野の東京芸術大学大学美術館で、原画を見ることも出来ました。この出会いがなければ、今回の『黙示録』のシリーズは描けませんでしたね。
  • それと、『黙示録』を描き始める前に、たまたまある方から依頼されて、オムニバスの題材が詰まった絵を一枚描いたんです。この経験も運良く、今回に繋がって行きました。そういう計らいがあってこそ、描くことが出来たんです。

——— で、描き終わってどうでしたか?

  • それで、2010年の1月から描き始めて、2011年の3月10日に、予定していた11枚を描き終わったんです。そうしたら、翌日の11日に、今回の「東北関東大震災」が起こった。もう、ビックリです。まさにこれは、『黙示録』そのものでした。大地が割れ、天から雹が降って来た。
  • 今日は3月18日ですが、原子力発電所の危機は去っていませんし、余震もずっと続いています。この先どうなるかと思うと、不安です。こんな時に、果たして、5月に予定している個展や、この画集も出せるのかな? と思いました。でも、だからこそ出さなければ、と逆に考えたんです。

——— それはどういう決意だったんでしょうか?

  • 今は困難な時であるけれども、この『黙示録』の21章、22章に書かれている世界がやがて必ず訪れる。だから希望を捨てずに、生きていって欲しい、というメッセージですね。それを伝えたかった。

——— それは、キリスト教的な「神の王国」のことを言っているんでしょうか?

  • いいえ、必ずしもそういうことではありません。私は、よく名前のことを訊かれるんですが、「淨眞」というのは得度名です。ですから実は私は仏教系なんです。正確には修験道なんですが、修験道は仏教と、山岳信仰、つまりアニミズムとが結びついたものです。それに古神道の要素もあります。ですから元々、何々教だからとか、何々宗だから、といったこだわりは特にありません。それに神様は分け隔てなく人々を愛していらしゃるはずですから、人種や、民族や、宗教の違いなんて関係ありません。またそうでなければおかしいと思います。

——— では、強瀬さんとキリスト教の関係は、どんな位置づけになるんでしょうか?

  • 私はクリスチャンではありませんが、キリスト教に関しては、2001年に、ギリシャ、トルコ、パトモス島の聖地を訪ねる旅をしてきました。そして1992年と2009年には、イタリアのアッシジとバチカンにも行きました。特にイタリアは、心のふるさとというか、懐かしい感じがして、全く違和感がないんです。教会に入っても、スーっとお祈りができます。帰国をやめて、このままイタリアに住みたいなと思ったほどです。

——— 結局みんな同じ、一つということですね。では最後に、これからの願いを聞かせてください。

  • これからは、この『黙示録』の、今回まだ絵にしていない章も描きたいし、それが終わったら、今度は自分のインスピレーションによる『黙示録』も描いてみたいです。
  • 『黙示録』の捉え方というのは様々なんですが、私はこれを対立の物語とか、選別の物語とか、というふうには捉えていません。新天新地(ニュー・エルサレム)というのは、すべての人間に等しく与えられなければなりませんし、今は人間が未熟ですから、問題は多いですが、そういう苦難の時を経て、やがて世界が一つになることを心底願っています。
  • そのために、自分を捨てて、神様の手足となりきって描くように、日々心がけて、これからも精進していきたいと思っています。
  • (2011年3月18日:談)