キリスト教の聖書は、全部で66編の聖典群で構成されています。『ヨハネの黙示録』は、この聖典群の最後に位置づけられた書物です。聖書は、大きく『旧約聖書』(39編)と『新約聖書』(27編)に分けられますが、『旧約聖書』の最初を飾る『創世記』から『新約聖書』の最後を締めくくる『ヨハネの黙示録』までが、統一性をもった一つの大きな物語として捉えられています。つまり『ヨハネの黙示録』の内容には、エピローグとしてのそれだけの意味があるということです。

『ヨハネの黙示録』の作者は、イエス・キリストの十二使徒のうちの一人、ヨハネです。ヨハネは兄のヤコブとともにユダヤのガリラヤ湖で漁師をしていましたが、イエスと出会い、その最初の弟子の一人となりました。イエスに最も愛された弟子と言われ、イエスが十字架に架けられた際にも、使徒の中でただひとり十字架の傍らにいました。またヨハネは、十二使徒のうちで唯一、ローマ帝国の迫害による殉教を逃れ、90歳を越える長生きをして天寿を全うしたと言われています。

イエスの死後、若きヨハネはイエスの母マリアを連れて、エフェソスに移り住みます。そこで小アジア(現在のトルコ)の町々に伝道を行うのですが、ローマ皇帝ドミチアヌスの迫害によって捕らえられ、一時ローマに移送されます。しかし死刑はまぬかれ、エーゲ海のパトモス島に追放されることになりました。このパトモス島幽閉時代に、神の啓示を受けて書かれたのが、『黙示録』です。その後、ヨハネは釈放されてエフェソスに戻り、そこで『福音書』を著わしました。

ところでこのヨハネという名前ですが、キリスト教の歴史の中には、多くのヨハネの名が登場します。キリスト教に縁のない人にとっては、とてもまぎらわしいことでしょう。キリストが生きていた同時代にも、重要な二人のヨハネが登場します。それは、ユダヤの預言者ヨハネと、キリストの十二使徒の一人であったヨハネで、この二人は別人です。そこで前者は、若きキリストに洗礼を授けたことから「洗礼者ヨハネ」、後者は「使徒ヨハネ」と呼んで、区別されています。『ヨハネの黙示録』の作者は、「使徒ヨハネ」の方です。

さて、書のタイトルの『黙示録』ですが、「黙示」とは、<暗黙のうちに意思や考えを表す>という意味で、現代では「啓示」と呼ばれることの方が多くなっています。しかし本書では、慣例に従って『ヨハネの黙示録』としました。また英語では、黙示録は『Apocalypse』と表現されますが、これはギリシャ語の「アポカリュプス(古代ギリシア語: 'Aπōκάλυψις )」が転じたもので、原義は「覆いを外す」といった意味です。このことから『Apocalypse』は「隠されていたものが明らかにされる」という意味を持っています。

これで解るように、『ヨハネの黙示録』は、秘匿されていた神の言葉を明らかにした「預言書」である、ということです。このような性格を持つために、『ヨハネの黙示録』はキリスト教徒のあいだでも、その扱いや解釈をめぐって今日まで様々な議論が行われてきました。ところでこの「預言」ですが、<神の言葉を預かる>という意味であり、いわゆる「予言」とは異なります。しかしこの書の冒頭で「これからまもなく起こることを、神がその僕たちに示すために」とあるように、未来予測を含んでいるために、「予言」の面から様々な解釈がなされるようになったのです。

さて、『ヨハネの黙示録』は全体が22章からなっています。詩的散文のように書かれているため、全体の分量はそれほど多くはありません。しかし多くの象徴言語で書かれているために、難解だとされてきました。また象徴言語の捉え方によっては、その記述に対して多くの解釈がありえます。ここではそこに深入りせずに、一つの試みとして「アカシック・リーディング」に解答を求める、ということをしてみましたので、一つの参考にしていただきたいと思います。

ところで、理解を深めるために、当時の時代状況としてどうしても知っておかなければならない点が二つあります。一つは、聖書に書かれている「世界」の大きさです。時代は、大航海時代が始まるはるか以前。パレスチナに住む人々にとって認識された世界はと言えば、アジアの西南の地域と、ヨーロッパ、そして地中海を挟んだ対岸の北アフリカしかなかったのです。聖書で語られる物語は、この中でもさらに狭い、アジア西南とエジプトの北東部、それに現在のギリシャからイタリア南部にかけての限られた土地にまつわる物語だということです。(LinkIconイエス宣教時代のローマ帝国地図:参照

『ヨハネの黙示録』は、「まもなく起こることを示すために」小アジアにある7つの教会に対し、書簡を送るというスタイルで始まります。小アジアとは、現在のトルコを指しており、1世紀頃にはこれら7つの教会は実在していました。この地域は、パレスチナからヨーロッパへと宣教を進める際の中継点であり、当時の要所でした。現在の感覚ですと、ローマからアジアへキリスト教が広まったようにイメージするでしょうが、この時代は逆です。パレスチナから小アジアを経由して、やがてギリシャ、ローマへと布教が進んで行ったのです。

さてもう一つは、ローマ帝国によるキリスト教の迫害です。紀元前63年からローマ人のパレスチナ支配が始まり、カエサル・アウグストゥスが、アントニウスとクレオパトラとの戦いに勝利して皇帝となると、聖書で語られているこの地域を、傀儡であったヘロデ王を通じて、ローマ帝国が政治的に支配するようになりました。ユダヤ人たちはこの支配に反発し、何度も反逆を試みましたが、そのつど打ち倒され、民衆の怒りが蓄積されていきました。こうして「メシア」(救世主)待望論が生まれていきます。そのような時代に誕生したのが、ナザレのイエスでした。

イエスは養父のヨセフに習い、ナザレ町のあるガリラヤ湖周辺で大工をしていました。幼少期はユダヤの教会へ行って、歌や祈りや読み書きを習い、年に一度は「過ぎ越し祭」を祝うために、弟たちや妹たちとエルサレムに上ったりしました。このようにして、しだいに神に触れていくようになりました。そして32歳のころ、当時、メシアではないかと評判になっていた預言者ヨハネのもとへ行き、水の洗礼を受けます。この時、洗礼者ヨハネは、イエスを見て「とんでもない。私こそ、あなたから洗礼を受けなければなりませんのに。」と語ったと、マタイ伝には書かれています。

こうしてナザレのイエスがキリスト(古代ギリシャ語で救世主の意味)になったのです。そしてこの直後から、イエスは自分で宣教を始めるようになります。進んで町や村々を訪ね、人々に神のゆるしと福音を伝えて歩きました。また多くの病人を癒しました。この間、漁師のペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネの兄弟ら、十二人を次々と弟子にしていきます。しかしイエスが、ユダヤの律法に従わなかったり、ローマ人の召し使いを癒したりするのを見て、ユダヤの指導者層はしだいにイエスを危険人物と見なすようになっていきました。

こうした経緯の後、最後は十二弟子の一人、イスカリオテのユダに裏切られ、イエスは十字架刑にかけられてしまうのです。ところで、ここまでを長い物語と思われるかも知れませんが、実はイエスが宣教を開始してから死を迎えるまでは、わずか3年ほどに過ぎません。イエスの死後、弟子たちは初期の教会をつくり宣教を続けるのですが、クリスチャンたちは、ユダヤ人とその支配者であったローマ人の両方から、その後も迫害を受け続けたのです。このような時代背景の中で、『ヨハネの黙示録』が書かれました。