SYUDY
絵画と学ぶ、ヨハネの黙示録
キリスト教の聖書は、全部で66編の聖典群で構成されています。『ヨハネの黙示録』は、この聖典群の最後に位置づけられた書物です。聖書は、大きく『旧約聖書』(39編)と『新約聖書』(27編)に分けられますが、『旧約聖書』の最初を飾る『創世記』から『新約聖書』の最後を締めくくる『ヨハネの黙示録』までが、統一性をもった一つの大きな物語として捉えられています。つまり『ヨハネの黙示録』の内容には、エピローグとしてのそれだけの意味があるということです。
『ヨハネの黙示録』の作者は、イエス・キリストの十二使徒のうちの一人、ヨハネです。ヨハネは兄のヤコブとともにユダヤのガリラヤ湖で漁師をしていましたが、イエスと出会い、その最初の弟子の一人となりました。イエスに最も愛された弟子と言われ、イエスが十字架に架けられた際にも、使徒の中でただひとり十字架の傍らにいました。またヨハネは、十二使徒のうちで唯一、ローマ帝国の迫害による殉教を逃れ、90歳を越える長生きをして天寿を全うしたと言われています。
イエスの死後、若きヨハネはイエスの母マリアを連れて、エフェソスに移り住みます。そこで小アジア(現在のトルコ)の町々に伝道を行うのですが、ローマ皇帝ドミチアヌスの迫害によって捕らえられ、一時ローマに移送されます。しかし死刑はまぬかれ、エーゲ海のパトモス島に追放されることになりました。このパトモス島幽閉時代に、神の啓示を受けて書かれたのが、『黙示録』です。その後、ヨハネは釈放されてエフェソスに戻り、そこで『福音書』を著わしました。
ところでこのヨハネという名前ですが、キリスト教の歴史の中には、多くのヨハネの名が登場します。キリスト教に縁のない人にとっては、とてもまぎらわしいことでしょう。キリストが生きていた同時代にも、重要な二人のヨハネが登場します。それは、ユダヤの預言者ヨハネと、キリストの十二使徒の一人であったヨハネで、この二人は別人です。そこで前者は、若きキリストに洗礼を授けたことから「洗礼者ヨハネ」、後者は「使徒ヨハネ」と呼んで、区別されています。『ヨハネの黙示録』の作者は、「使徒ヨハネ」の方です。
さて、書のタイトルの『黙示録』ですが、「黙示」とは、<暗黙のうちに意思や考えを表す>という意味で、現代では「啓示」と呼ばれることの方が多くなっています。しかし本書では、慣例に従って『ヨハネの黙示録』としました。また英語では、黙示録は『Apocalypse』と表現されますが、これはギリシャ語の「アポカリュプス(古代ギリシア語: 'Aπōκάλυψις )」が転じたもので、原義は「覆いを外す」といった意味です。このことから『Apocalypse』は「隠されていたものが明らかにされる」という意味を持っています。
これで解るように、『ヨハネの黙示録』は、秘匿されていた神の言葉を明らかにした「預言書」である、ということです。このような性格を持つために、『ヨハネの黙示録』はキリスト教徒のあいだでも、その扱いや解釈をめぐって今日まで様々な議論が行われてきました。ところでこの「預言」ですが、<神の言葉を預かる>という意味であり、いわゆる「予言」とは異なります。しかしこの書の冒頭で「これからまもなく起こることを、神がその僕たちに示すために」とあるように、未来予測を含んでいるために、「予言」の面から様々な解釈がなされるようになったのです。
さて、『ヨハネの黙示録』は全体が22章からなっています。詩的散文のように書かれているため、全体の分量はそれほど多くはありません。しかし多くの象徴言語で書かれているために、難解だとされてきました。また象徴言語の捉え方によっては、その記述に対して多くの解釈がありえます。ここではそこに深入りせずに、一つの試みとして「アカシック・リーディング」に解答を求める、ということをしてみましたので、一つの参考にしていただきたいと思います。
ところで、理解を深めるために、当時の時代状況としてどうしても知っておかなければならない点が二つあります。一つは、聖書に書かれている「世界」の大きさです。時代は、大航海時代が始まるはるか以前。パレスチナに住む人々にとって認識された世界はと言えば、アジアの西南の地域と、ヨーロッパ、そして地中海を挟んだ対岸の北アフリカしかなかったのです。聖書で語られる物語は、この中でもさらに狭い、アジア西南とエジプトの北東部、それに現在のギリシャからイタリア南部にかけての限られた土地にまつわる物語だということです。
『ヨハネの黙示録』は、「まもなく起こることを示すために」小アジアにある7つの教会に対し、書簡を送るというスタイルで始まります。小アジアとは、現在のトルコを指しており、1世紀頃にはこれら7つの教会は実在していました。この地域は、パレスチナからヨーロッパへと宣教を進める際の中継点であり、当時の要所でした。現在の感覚ですと、ローマからアジアへキリスト教が広まったようにイメージするでしょうが、この時代は逆です。パレスチナから小アジアを経由して、やがてギリシャ、ローマへと布教が進んで行ったのです。
さてもう一つは、ローマ帝国によるキリスト教の迫害です。紀元前63年からローマ人のパレスチナ支配が始まり、カエサル・アウグストゥスが、アントニウスとクレオパトラとの戦いに勝利して皇帝となると、聖書で語られているこの地域を、傀儡であったヘロデ王を通じて、ローマ帝国が政治的に支配するようになりました。ユダヤ人たちはこの支配に反発し、何度も反逆を試みましたが、そのつど打ち倒され、民衆の怒りが蓄積されていきました。こうして「メシア」(救世主)待望論が生まれていきます。そのような時代に誕生したのが、ナザレのイエスでした。
イエスは養父のヨセフに習い、ナザレ町のあるガリラヤ湖周辺で大工をしていました。幼少期はユダヤの教会へ行って、歌や祈りや読み書きを習い、年に一度は「過ぎ越し祭」を祝うために、弟たちや妹たちとエルサレムに上ったりしました。このようにして、しだいに神に触れていくようになりました。そして32歳のころ、当時、メシアではないかと評判になっていた預言者ヨハネのもとへ行き、水の洗礼を受けます。この時、洗礼者ヨハネは、イエスを見て「とんでもない。私こそ、あなたから洗礼を受けなければなりませんのに。」と語ったと、マタイ伝には書かれています。
こうしてナザレのイエスがキリスト(古代ギリシャ語で救世主の意味)になったのです。そしてこの直後から、イエスは自分で宣教を始めるようになります。進んで町や村々を訪ね、人々に神のゆるしと福音を伝えて歩きました。また多くの病人を癒しました。この間、漁師のペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネの兄弟ら、十二人を次々と弟子にしていきます。しかしイエスが、ユダヤの律法に従わなかったり、ローマ人の召し使いを癒したりするのを見て、ユダヤの指導者層はしだいにイエスを危険人物と見なすようになっていきました。
こうした経緯の後、最後は十二弟子の一人、イスカリオテのユダに裏切られ、イエスは十字架刑にかけられてしまうのです。ところで、ここまでを長い物語と思われるかも知れませんが、実はイエスが宣教を開始してから死を迎えるまでは、わずか3年ほどに過ぎません。イエスの死後、弟子たちは初期の教会をつくり宣教を続けるのですが、クリスチャンたちは、ユダヤ人とその支配者であったローマ人の両方から、その後も迫害を受け続けたのです。このような時代背景の中で、『ヨハネの黙示録』が書かれました。
Reading
ヨハネ・ペヌエル リーディング
リーディングNo.11706/12032
2010年4月23日/10月29日
「アカシック・リーディング」とは、霊界のある階層に、アカシック・レコード(サンスクリット語でアカシャ:akasha)と呼ばれる書庫があり、ここに瞑想状態でアクセスし、書かれてある内容を読み解く秘儀のことを言います。アカシック・レコードには、宇宙の全存在の、過去から未来までの歴史すべてが記録されており、リーダー(reader:リーディングを行う人)がこれを読み解くことによって、あらゆる質問に答えることができます。 「アカシック・リーディング」の先駆者は、20世紀前半に活躍した米国人のエドガー・ケイシー(1877~1945)です。彼は24歳の時にこの能力が発現してから67歳で亡くなるまでの間、記録されているだけでも14,306件のリーディングを残しました。しかし、「リーディング」とは呼ばなかったものの、同様の秘儀は、古代より霊能者によって行われてきたものです。 今回の『ヨハネの黙示録』に関しては、日本人の浅野信(聖職名:ヨハネ・ペヌエル)氏にリーディングをお願いしました。今回のリーディングにおいては、『ヨハネの黙示録』が書かれた意図と、ニューエルサレムに関して記述された最終章の解釈の2つについて、主にスポットを当てて、質問を行っています。
『ヨハネの黙示録』は、その意味を解釈することがとても難しい書物です。象徴言語が多用されており、ときにおどろおどろしい表現も見受けられます。ヨハネはなぜこのような難解な記述にしたのでしょうか?ヨハネ自身が、これを著した真の目的はなんだったのでしょうか?『ヨハネの黙示録』は、よく言われるように、現代を予言した書物なのでしょうか?
聖書全体における『ヨハネの黙示録』の位置づけ
聖書は、人類の救済史についての記述です。『ヨハネの黙示録』は、その聖書の一部を成し、聖書の一環としてあります。しかも聖書の物語やドラマの完結として、つまり締めくくりとして、最後に置かれています。
聖書を構成するそれぞれの物語は、多くの者たちによって個別的に、独立して書かれたのですが、後でそれを編纂する者たちが、それらをうまく組み合わせ位置づけ、配置させて、大きな、一つの神と人類が織り成すドラマを、「聖書」という形に編集しました。
しかしただ単に、人間の思惑で勝手にまとめたというものではありません。書かれた時点ですでに、後に聖書の各々の部分に相当するものを、予め与えるということで、書かれていったのです。
黙示録は、ヨハネのものばかりでなく、ペトロの黙示録であったり、パウロの黙示録であったりと、多く書かれたのですが、結局は聖書に、正式の神からの預言として組み込まれたものは、『ヨハネの黙示録』だけでした。
聖書の最初は『創世記』です。『創世記』は、モーセの五書の一つであり、モーセが書いたように言われていますが、実際はモーセの後継者のヨシュアが書きました。ヨシュアは、イエス・キリストの前世の人物ですので、宇宙と人類の創造をあそこまで書けたのです。
一方、聖書を締めくくる『ヨハネの黙示録』は、確かに使徒ヨハネが書いたという点では、ヨハネの黙示録なのですが、黙示録の冒頭に書かれている通り、正式には「イエス・キリストの黙示」なのです。
イエス・キリストが人類に啓示を与えられる。それを天使を遣わし、ヨハネに告げることで、ヨハネを通して人類に与えるという形式をとっています。それゆえ、「ヨハネの黙示」というよりも、「イエス・キリストの黙示」と言った方が正しいのです。
このように、聖書の最初の『創世記』はモーセが書かれたと言われているのですが、実際はヨシュアが、また聖書の最後の『黙示録』はヨハネのものと言われていますが、正しくはイエス・キリストのものです。つまり、聖書の最初と最後が、イエス・キリストによるものなのです。しかも、『創世記』と『黙示録』とは、見るからに記述内容が対応しています。『黙示録』の中にある通り、「神は初まりであり、終わりである方」なのです。
『ヨハネの黙示録』に書かれていること
『ヨハネの黙示録』の記述は、いくつかの層を形成しています。一つだけではありません。示された意味が重層的なために、様々な解釈が可能となり、それが理解を難しくさせています。しかしそのことを整理すれば、理解がしやすくなります。『ヨハネの黙示録』には、大きく三つの事柄が記されています。
一つ目は、ヨハネ個人の試練と浄化、育成、覚醒についてです。『黙示録』の前半部は、ヨハネ個人の浄化と育成について書かれています。そして前半の最後で、ヨハネが完成し、キリスト意識を体現します。
こうして後半は、キリスト意識を体現したヨハネ自身が、今度は自由にアカシック・レコードを読んで、世界の行く末や、世界の課題について見せられたことが、記述されているのです。また、ヨハネ個人が浄化され、完成に至った過程と同じように、今度は人類と地球が、同様の試みに遭いながら浄化され、育成されていく、世界予言が黙示録の後半を成しています。
このように、第一点目としてヨハネ個人へのお取り扱いという観点があります。それはヨハネの個人的な実体験でした。
二つ目は、単にヨハネ個人ばかりではなく、人がカルマを果たし、成長を遂げて完成へと向かうまでの、生命の進化の法則、あるいは覚醒していく法則や原理が描写されています。ヨハネがたどったように、一人ひとりも浄化と育成が成され、進化していくことが、一般的な「法則」として記述されているのです。
その意味で、誰でもが、ヨハネが通ったように、苦しや試みを通して、神さまに取り扱われ、仕上げられていくことができるのだ、ということを示しています。このように、修行したり、成長を目指している者にとっては、『ヨハネの黙示録』は有益な手引き書となっています。いわば、霊的進化のガイドブックなのです。
特に浄化と育成は、霊的には7つのチャクラに関して行われるので、カルマが現われ出て解けていく描写が、チャクラと関連付けられています。そこで、『ヨハネの黙示録』の中には7という数が頻繁に出てくるのです。7は、進化の法則なのです。このように、誰にとっても当てはまる、生命の進化と修行の原理が、二つ目として記されています。
三つ目は予言です。この予言に関しては、さらに二通りに分けられます。
個人の身の上や世界に起こる「出来事メッセージ」に関して、一般的な原理原則を示しているという面と、具体的に今この時代について予言したという具体的、個別的な面です。『黙示録』を予言書として見た場合には、この両方を含んでいるのです。
一般的な原理原則を示した予言というのは、こういうことです。『黙示録』には、出来事メッセージやカルマについて、その現われ方や、解き方や、留意点が書かれています。これらは、法則であり、いつの時代でも、どんな人でも、どこの地域でも当てはまるものです。それゆえ、過去に起こった出来事や、今現在起きている出来事についても、『黙示録』はいつでも当てはまり、参考になるということなのです。
次に、具体的、個別的な面に関して、もう少し詳しく見ていきます。
『ヨハネの黙示録』が示した予言
『黙示録』は、人類と地球の将来を予言した書である、と言われることがあります。確かに、近い将来に関してならば、ヨハネは予告したということはありました。つまり書かれた時点から見て、数10年から200年、300年後、400年後の辺りまでのことです。
具体的にはローマ帝国のことが、バビロンとして象徴的に表現されています。かつてバビロンが神の心から遠く離れてしまったため、神によって滅ぼされたように、ローマ帝国もクリスチャンたちを迫害し始め、神の心に適っていないので、いずれ遅かれ早かれ、かつてのバビロンのように滅びる時が来る、と予告しているのです。
それによって今、迫害され、危機に見舞われているクリスチャンの仲間たちを安心させ、大丈夫だと励まし、神様から逸れないように、今後とも信仰の生活を続けることを勧めています。
また666の数字は、ローマ帝国の権力のトップに君臨する「皇帝」を表しています。実際にはローマ帝国はキリスト教と融和し、皇帝自身がクリスチャンとなって、キリスト教をローマ帝国の国教と定めるほどになりました。
その上で時代が変わり、ローマ帝国の役目が済んで、ローマ帝国は終わりを遂げました。このように、ヨハネの時代以降を見ると、文字通りの意味では『黙示録』の予言は当たらなかったと言えます。なぜならローマ帝国の皇帝はついにはキリスト教を認め、キリスト教に改宗して国の宗教と定めるに至ったからです。
しかしもう少し踏み込んでみると、ヨハネが『黙示録』の啓示を伝えたことで、そして形にしたことで、ローマ帝国に少なからぬインパクトを与えました。もし『黙示録』が著されなかったなら、ローマ帝国は『黙示録』で予言されたような運命をたどる筈だったのです。しかしこれに対して、確かな変化をもたらし、それによって『黙示録』が書かれた真の狙いが成就したということが言えます。
『黙示録』の警告のおかげで、ローマ帝国はすぐにではなかったけれども、200年後ほどの時を経て、神様のお心に向かい、バビロンのように滅びるということにはならずに済みました。
バビロンの場合は、ペルシャのキュロス王によって攻められ、滅ぼされ、征服されました。しかしローマ帝国は、一つの時代を画し、問題も多かったけれども、地上での役目を終えることが出来たのです。
最後はローマ皇帝自らがクリスチャンとなって、よい形で終えることが出来ました。それもペテロやパウロの殉教とともに、ヨハネが『黙示録』を形にして残したおかげだったのです。
『黙示録』の予言的な面について、もっとずっと未来の、この現代を予告したものである、と見る人たちもいます。「ここの記述は1997年、ここの記述は1998年について、ヨハネが予め予言していた」とまで解釈する人もいます。しかし、そこまで一対一できれいに対応しているということはありません。
ヨハネ自身は2000年も後のことを意識的に予告したということはありませんでした。ただ結果として、ヨハネが普遍的な宇宙の法則や生命の進化について描写したので、法則に基いて、2000年後の現代を予言した形になっているという面もあると言えます。ヨハネはそのパターンを読み取り、示しました。
直接2000年後の現代を予告したということはなかったのですが、法則はどこにでも当てはまるので、結果的に『黙示録』が予告したような形で、2000年後の現代でもそこに書かれてあることが起きやすいという面があるのです。
ただヨハネ自身が『福音書』でも『黙示録』自体の中でも、「再び出てきて予言しなければならない」と示唆している通り、またエドガー・ケイシーも予言したように、20世紀から21世紀にかけて、ヨハネ自らが転生してきて再び予言するということがあれば、現代こそが『黙示録』の予言が成就する時代に相当している、ということはありえます。
人類と地球は、いま重要なポイントに差し掛かっています。今の時代に、特に個別的、具体的に、黙示録が対応していることは確かです。ヨハネが受け取ったイエス・キリストの黙示が実現する時であるから、ヨハネは2000年前の預言を責任を持って成就するために生まれ変わり、それを果たすだろうということです。
もちろんヨハネ一人でするということではなく、ヨハネが軸となり、人類が皆それぞれONEの精神でもって、各自が自分に目覚め、特性を活かすことで、神さまから割り当てられた固有の役目を遂げ、達成されるという意味です。全人類がそれに参加するのです。
今は、黙示録のすべてが成就する時というよりも基礎作りの時期です。21世紀初頭の現代に基礎作りが成されれば、つまりONEの基礎が据えられれば、神さまの望まれる方向付けが確定し、いずれ時が来た時に、黙示録の最後に描写されている新天新地の到来がやってきます。
個人の霊的成長と予言との関連性
自分の外に起きる出来事に関する予言が、なぜ個人の内面の修行と関係するのか。それは神さまの人間に対するお取り扱いとして、カルマを噴出させ、カルマを通して導き育てるという面があるからです。
そのカルマは、体の中ではチャクラに蓄積されていますが、一旦発動すると身辺に出来事を起こします。ですから、それは同時に世界の予言にもなるということです。
いわば修行の内面の部分と、周囲に物理的に出来事としてカルマが現われ出て来るという面とが対応して、一つの事として進行していくドラマです。実は、『黙示録』に限られず、聖書全体がこうなっているのです。
個人の内部と外部、精神面と実際面、心の課題と外部に起きる出来事の予言。これらが密接に一つの事として描写されています。ヨハネ個人の課題であるものが、人類の共通の課題としても描写されているのです。
確かにこの現代は、人類全体としてカルマが噴出し、エネルギー問題であるとか、核戦争の危機であるとか、食糧不足とか、人口爆発、宗教上のテロ、経済的な不況、教育問題等、どれ一つ取って見ても人類の未解決の課題がカルマとの関連で出て来ています。それらを解決するのは、社会的な政策以上に、個人の修行の問題、つまり宗教上のテーマになっているのです。
『ヨハネの黙示録』その真の狙い
しかし『黙示録』の本筋は「予言」の面にあるのではなく、あくまで「神の王国」が訪れることを声高らかに宣言したことにあります。悪が裁かれ、カルマが清算され、神のご計画が実現すること。
『黙示録』の真の狙いは、一人ひとりの浄化と目覚めによって、「神の王国」が地上に訪れることをあらかじめ力強く宣言し、いま苦難にあっている者たちに確信をもたせ、励ましながら正しい方向へと導く指針として記されたものです。
今は神様を思う者たちは認められず、迫害に遭って命の危険に晒され、信仰も表立って出来ない時代状況にあるけれども、必ず正義と真実が現れ、神のご経綸は、「神の王国」を地上にもたらす時が来る。
そうであるから、いま迫害に遭っている者たちは、不安に陥らず、動揺したり信仰を捨てることなく、貫くように、必ずそのことが解り、実現する時が来る。
そのように知らせて励まし、信仰を捨てたり、神から逸れないことを、信心深い者や心の正しい者たちに言って聞かせる、という目的で『黙示録』が書かれました。
「神の王国」がいつ訪れるかという具体的な時までは特定していませんが、神様のご経綸からそのことが読み取れるので、いま苦難に遭っている者たちが多い時代状況だからこそ、キリスト直弟子の最後の生き残りの自分が、そのことを最後に伝えておかねばならない、という任務を強く自覚して、これをヨハネが書物にまとめたのです。
果たして「神の王国」がいつ訪れるのか。ローマ帝国の皇帝がキリスト教に改宗し、ローマ帝国の国教に定められた時なのか。それともキリスト教が世界宗教として世界人口の3分の1ほどを占めるようになった20世紀が、すでに「神の王国」の実現であったのか。それともまもなく来るのか。あるいはもっとずっと先なのか。それは『黙示録』自体を見ても何とも答えようがありません。ただそれが、時期が来れば、遅かれ早かれ必ず実現するということは言えます。神がそのことを予め定められたからです。
『黙示録』の特徴は、正義と真実が必ず勝ち、「神の王国」が地上に打ち立てられるということへの確信にあります。そして、それが外から降って湧いたように来るというのではなく、人類一人ひとりが、ヨハネ自身のように神のお手入れを受け、浄化と育成のプロセスを順々に経ることで進化し、整って人間完成することによって、自ずと世界にも「神の王国」が実現して行くのだ、という述べ方をしています。
ヨハネ自身が試練を通って仕上げられ、新天新地が訪れた。つまり新しい精神<天>と新しい肉体<地>を帯びて完成したように、ヨハネを雛形として、今後人類一人ひとりが自分の修行に取り組むことで、浄化と成長を経て完成していく。そのことが144,000人で象徴される人数に達したなら、そこから優勢となってその動きが周りに波及し、ついには全体に及ぶことになって、「神の王国」が地上で具現化するという捉え方です。
怖い表現、おどろおどろしい描写が登場する理由
『黙示録』には、怖い表現、おどろおどろしい描写が頻繁に出てきます。それは人々を威嚇し怖がらせるのが目的ではなく、浄化と愛の訓練が、恐怖の潜在意識のイメージと現実のつらい困難として、神からやってくることを表しています。
単なる懲らしめや、ましてや苛めなどではなく、意味があり、必要があって神から愛による鍛錬を受け、カルマを通して一人ひとりが自分に向き合わされて、人生の中でいろいろ起きることによって清められ練り上げられ、ヨハネのように全うする。
一人ひとりがそのように、準備の出来た者から神の特訓が始まり、『黙示録』的な体験を経ていくことになる。
怖い『黙示録』の表現は、一人ひとりのその試練と修行の大変さを表しています。人生においては、神が愛をもって、真の意味でよいことを、絶妙に一人ひとりに起こされ、体験学習を課せられます。それが、人生が大変で苦労が多いことの説明になっています。
また象徴言語を多用しているために難解な部分もありますが、それらは当時の表現手段であり、ヨハネは旧約聖書に精通していたので、その記憶や知識を神が使って啓示を与えたために、そのような一種独特の描写になっているのです。
それは、当時のユダヤ的なイメージなのです。一人ひとりの実人生に普通にいろいろと起きてくる大変なことが、一種独特のユダヤの描写で示されているのです。しかしこの現代においては、必ずしもその形に限定する必要はありません。
実際、人の一生を見ると、苦難や試練の連続です。自分の思い通りに行く部分はむしろ少ない。そのことが、『黙示録』では怖い、おどろおどろしい、また不気味な描写として出てきているのです。人間の潜在意識に潜むマモン(強欲の魔)を表しています。
「天使」が災いをもたらすことの意味
大事なことは、愛と正義の神が「天使」を使って、そのことを一人ひとりに起こされるということ。たとえば7つの怒りの鉢の章を見ても、「天使」が鉢を傾けて注ぐと、いろいろな災いが起きてくると説明されています。けっして「悪魔」が動くことで、大変なことに見舞われる、とは書かれていません。「天使」が動くと大変な災いが地上に降りかかる、と描写されているのです。
その天使は神様の指令を受けて忠実に働いています。ということは、神様が人類に災いをもたらしているということです。そしてそれは、真の意味でよいことで、一人ひとりに必要で為になることなのです。神の愛と正義によって、一人ひとりに本当に必要でよいことが起きて、愛の訓練を受けるということなのです。
実際は、出来事がメッセージとなって、さまざまなことが一人ひとりに起きます。その意味で、一人ひとりはカルマによって、自業自得の自ら招いたものを受けているのであり、神様はそこに愛をもって、いいように関与してくださっているのです。
外から降りかかる災難も、よく見ると一人ひとりの身から出た錆であり、カルマ的結果です。しかしそれによって一人ひとりは試され、浄化され、育成され、鍛えられながら全うされていきます。そこに『黙示録』が関与します。
そのプロセスが、人間が未熟で汚くなっている分、つらい歩みになるので、『黙示録』では怖い、否定的な描写が自ずと多くなっているのです。
しかし一方では、天の世界の様子が描写され、天と地との関わりで、人類へのお手入れと愛の特訓が着々と進行して、ついにはまとまった人数の完成された者たちが揃い、そこまで到達すると、百匹目の猿現象で全体にそれが及んで浄化と育成が加速され、「神の王国」が実現するということです。これが、たどるであろう生命の浄化と進化の法則です。その法則について、ヨハネは描写しました。
『ヨハネの黙示録』の終盤である21、22章には、一人ひとりがキリスト再臨を迎え、新天新地としての人間完成が図られることが描写されております。これはいったいどんな状態や境地を示しているのでしょうか?またその時に、144,000人という数字も出て参ります。この数字にはいったいどんな意味があるのでしょうか?
144,000人で象徴される世界
144,000人とは12×12にさらに0をいくつか重ねたものです。つまり1000倍したものですので、「完璧、全て」の意味を象徴しています。しかし全人類というよりも、全人類に波及を引き起こすだけの基本数を示しています。
今現在、地球には70億人ほどが生きていますが、70億人の全員が『黙示録』を読んで理解する必要はありません。それは土台無理なことです。やはり教育環境や教育レベル、霊的ルーツ、これまでの準備態勢などからして、理解できる者は限られた人だけです。しかしその限られた人だけでも、これが及ぶことで、144,000人がやがて出揃います。すると後は、自動的に百匹目の猿現象が起きて、全人類にそれが及ぶのです。
この現代の21世紀前半期は、これから144,000人で象徴される世界に波及するための、基本人数が揃う方向に着実に向かう時なのです。
2010年からこの動きが加速し、これからの数十年で144,000人で象徴される全体に波及するために必要な人数が揃うことになるでしょう。
すると、それがさらに加速され、23世紀のころには、全体に「神の王国」が実現し、『黙示録』が成就する可能性が高いのです。その意味で、この現代とは、144,000人が出揃うことが起きる時期と言えるのです。
新天新地としての人間完成とは?
では、いったいどのようになった境地が、新天新地としての人間完成なのか。そのことが『黙示録』の21、22章に描写されています。そのような心境にその人の心や体が整うと、人間完成となります。それをヨハネはビジュアルに示しました。
人間は目標があると取り組みやすく、実現も起きやすいし、道から逸れないで済むからです。その意味で、21、22章は、仏教の中の『浄土三部経』の極楽浄土の描写に相当しています。
その完成した状態に自分を献身させれば、自動的にそこに向かって導かれ始めるからです。最終的にどうなるかをあらかじめ知って取り組むことが、とても大切なのです。そのために、これが示されました。
キリストをはじめ仏陀にしても、様々な菩薩や悟りを開かれ神や仏と一つになった聖者の境地が、果たしていかなるものなのか。それを知ることで、修行者や一般の人たちまでもが励みになり、また目指すべき目標が明確にされます。
『黙示録』の21、22章で表わされたのは、そのような、最高度に到達した者たちの心境や有りようでした。
それを自分の中でイメージたくましく、リアルに体感すること。それによってそのイメージが自分を助け、やがて育て導き始めます。『黙示録』の21、22章が修行者の中で生き生きと作用を起こし始め、それがついに実現するところまで導き育て始めるのです。そのために最終完成の状態が、麗しいビジョンの形で示されたのです。
『黙示録』は、読む者たちを激励する書物
また、ニューエルサレムが天から静かに下って来るというのは、本当の清らかで高潔な賜物は、自分の内部から湧き上がるのではなく、天から授かる、人間とは全く異質の清らかで完全なものであるということを示しています。キリスト再臨といわれるものも、そのことを表しています。これは仏教で言う「他力」の大切さに相当します。
『黙示録』は怖い、避けたい書物だと見なされていますが、実際はまったくその正反対で、生命進化に取り組む者一人ひとりの、希望と指針になる喜びに溢れた、美しい内容の、読む者たちを激励する書物なのです。